一生一緒に飽きた人
最近気付いた事なんだけれども、ある種の人間が持ち合わせている現実感覚に昔から疎く、例えば何かが始まってその道理として終わるという結果に帰着する、生まれたら死ぬ、のような簡単に予測がつくであろう変化や成り行きにいちいち結果が出たあと二歩も三歩も遅れて、あぁそうか、そう来たか、そうかそうかと理解し、さらに二周も三周も遅れて感覚的に受け入れられたり受け入れられなかったりする。それは単に知性の欠如ですね、consequence的な概念が欠如していますね。と言われればそうかもしれないけども、実はそれだけではなくて、何もこのまま変わらないでいてほしい、変わってしまうものは恐ろしい、みたいなおおよそ四半世紀も生きた、いい年した大人がもっていてはまずいであろう青すぎる部分がそうさせているのではないか、と思えてならない。だとするとそういう物事に恒久不変の幻想を抱くことに飽きたと言える事が、大人になるということなのでしょう。
葬式Fes構想メモ
長期的な展望に立って物事を考えるのが絶望的に不得手である私にとって、生きることそのもの以外の将来の計画やらなんやらを訊かれるのは苦痛以外の何ものでもないが、唯一やりたい事として『遺作として自分の葬式を完全にオーガナイズする』という目標のようなものは密かに抱いている。それをインスタレーションと呼ぶこともできなくはないが、その響きの格好良さには到底釣り合わせられる気配も予感もないので、形式は取り敢えずのところは何でもいい。
現段階の構想メモを。
コンセプト:葬式フェス
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【進行表(仮)】
・開式
・DJ-僧侶の到着
・MC喪主による挨拶
(挨拶を乗せるビートは未定)
・参列者によるフリースタイル読経バトル
・僧侶による木魚独奏
(『108つの煩悩カーニバル組曲』より全曲)
・MC喪主 feat.ジモ・トノ・ヤバイ=ナカマ
(待機していたジモ・トノ・ヤバイ=ナカマが仲良さげにどこからともなく登場する。曲目は未定)
・焼香
・遺影とイェーイ(記念撮影)
・退場
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写真
写真を趣味にして思ったこと:写真を撮ることの良いところは、出来るだけいい写真を撮ろうとする態度そのもので、視覚にあるものの中で一番気に入ったところを切り取ろうとしている時間は、目に見えるものへの感度を上げまくってどこからともなく湧いてきた対象への興味と共に全力で肯定している時間なんだと
夏なので転校します
♪君っと夏の終わり〜
「夏なのでケンガイに転校します」
「東京ですか」
「もう少し遠いです」
「沖縄ですか」
「ケンガイとは、もちろん県外なのですが、同時に通信圏外のことであり、ついでに大気圏外のことも指します」
「出発はいつですか」
「明日の始発のロケットです」
「着いたら手紙ください」
〜5万年後〜
『拝啓6年1組のみなさま お元気ですか………』
〜ポスト投函から5万年後〜
「‰⌘〆∞♭〓Å (あの野郎やっと手紙よこしやがったぜ)」
地獄の特色
極楽浄土の絵と地獄のそれでは大体において描画のディテールの細かさに違いがある。極楽浄土は何だかぼんやりとしているけど、地獄の絵はとにかく描写が細かい。これは単に地獄の方が描いてて楽しいからなんだろうとこれまたぼんやり解釈していたけど「地獄の特色は暗黒の中でも隅々まで明晰に見えること。」という三島小説の中の一文を見て、そうか、と思った。