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日记🐮徒然ไดอารี่

花火大会

どちらかと言えばかなり好きなものの部類であった花火を、特に好きでも嫌いでもないと思ったのは初めてで、これは何かに期待を裏切られたと言うよりかは「私の知っている花火と少し違う」という違和感でした。

 

花火は関係者でもない限り、打ち上げられるまではその色も形も規模も分かりません。
しかし打ち上げられればものの数秒のうちに巨大な光の花を夜空に咲かせ、その造形を確認し次第瞬時に消えて行く、そんな繰り返しさり得ない一回性の美の代名詞のような花火を、一夏に繰り広げるなんてロマンチックであると感じていました。

 

ロマンチックだと感じられたのにはそういうある種の緊張感が含有されていたからだと思うのですが、とは言っても、花火の規模が打ち上げられるまで分からないと言ったって、プロのなす技ですから火の粉が飛来して周辺家屋が全焼するほどではないだろうし、この花火大会は開催するにあたって社会的に許可を得ていて、この開催を巡って誰かと大喧嘩になる事もないだろう。そう、この守られた安全圏での開催、これが花火の高揚感を盛り下げているのではないかと思ったのです。
(もちろん安全第一ですし、許可は得るべきなんですが。)

 

少し前の話になりますが、以前タイに住んでいた頃、浜辺で花火を打ち上げるべく市場でいくつかの大きめな打ち上げ花火を購入しました。

その浜辺は、王様の別荘が近いとのことで、花火の規模に制限がありました。当然、それに反すば不敬罪となり処罰の対象となります。

困ったのは、打ち上げてみなければその花火がどの程度の規模の花火なのか、全く分からなかったことです。自分の周りには守るべきもの(社会的信頼や家族など)を持った大人たちが固唾を飲んで、その打ち上げを待ちます。

ちなみに花火には『着火後100mは離れるように』と書いてあり、また『着火後6秒で打ち上がる』とも書いてありました。これには陸上競技会の大スター、ウサインボルト氏もビックリである。

 

そして着火後、思いの外、大きな破裂音と壮大な花火に顔面蒼白し凍りついた一同の顔が忘れられません。エネルギーを尽くして重力に逆らいながら打ち上がる火の玉なんてそもそも危ないのである、という大前提が大前提のまま、打ち上げ花火を決行することができた、というのが直近の花火の思い出ですからこんな事を思ったのでしょう。よい夏を。

 

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